2008年09月09日

門田隆将「甲子園への遺言」

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昨日はプロ野球の試合がなかったので、今回はかなり前に読んで書きとめておいた本の感想文をUPします。

門田隆将「甲子園への遺言〜伝説の打撃コーチ 高畠導宏の生涯」(講談社)
内容紹介
のべ30人以上のタイトルホルダーを育てあげた天才打撃コーチが、教え子たちの心の中に遺したものとは。
「読みました。泣きました。こんなにすばらしい野球人がいたことを、1人でも多くの方に知ってほしい」
長嶋茂雄氏大絶賛!

平成16年夏、1人の高校教師が膵臓癌で亡くなりました。還暦を迎えて半年足らず、まだ60歳でした。その高校教師には、特異な経歴がありました。なんと約 30年にわたって、プロ野球の打撃コーチを務めたのです。渡り歩いた球団は、南海、ロッテ、ヤクルト、ダイエー、中日、オリックス、そして千葉ロッテ。野球の質が、パワーから技術へ、そして諜報戦から総合戦へ、さまざまに形状を変えていく中、彼は常にその最前線にいました。そして、7つの球団で独特の打撃理論と卓抜した洞察力を駆使して選手たちの指導をおこない、時に相談に乗り、汗と涙を共有しながら、気がつけば、のべ30人以上のタイトルホルダーを育て上げていました。しかし、その伝説の打撃コーチは、50代半ばで一念発起し、高校教師になるために通信教育で勉強を始めます。そして5年かかって教員免許を取得し、社会科教師として教壇に上がり、「甲子園」を目指しました。その人の名は、高畠導宏さんといいます。――<「はじめに」より>

NHK土曜ドラマ枠で、2008年1月19日21時より、全6回放送された「フルスイング」の原作本です。(関連エントリー
自分は、セ・リーグ、特に阪神を中心に野球を見ているので、つい最近までこの方の存在すら知りませんでした。

<略歴>
ケガがたたって選手時代は短かったんですが、野村監督に代打の切り札として見出されて最後にひと花咲かすって、野村再生工場第一号?

引退後、1973年に野村兼任監督に研究熱心さを買われ、29歳の若さで打撃コーチに抜擢され、その研究熱心さと豊富なアイデアを生かす。

しかし1977年、野村監督解任に伴い江夏豊、柏原純一と共に球団に反旗を翻し、選手専念となった野村と共にロッテオリオンズに移籍。野村はわずか1年でロッテを退団するが、高畠はその後もロッテに残り、1988年までの12年間で落合博満や水上善雄らを育成。選手から多大なる信頼を得る。当時のロッテからは落合をはじめ高沢秀昭(1988年)、西村徳文(1990年)など多くの首位打者が生まれた。

1990年には野村のヤクルトスワローズ監督就任に伴いヘッド兼打撃コーチとしてヤクルト入団。しかし野村との確執が生じ、この年限りで退団。その後福岡ダイエーホークス(1991-1994年)、中日ドラゴンズ(1995-1997年)、オリックス・ブルーウェーブ(1999-2001年)、千葉ロッテマリーンズ(2002年)と、延べ7球団で約30年間打撃コーチを務め、数多くの好打者を育て上げた。

1998年、中日で調査役をしている間に日本大学の通信課程に入学、教員免許を取得。2003年春より福岡県筑紫台高等学校の教員になり高校野球監督を目指していた。

2004年7月1日、膵臓癌の為、逝去。享年61(満60歳没) 。

高校球児を率い、監督として甲子園球場のグラウンドに立つ夢は叶わなかった。



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posted by スーパーサウスポーあさちゃん。 at 00:00| ☔| Comment(4) | TrackBack(4) | スポーツ関連読書記録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする